だるだる雑記

粗鹵狭隘なる理系高校生が、日本史や古文に関して、気の赴くまま綴るブログです。現在は古今和歌集を読んでいるため、その解釈や愚推を綴ります。高校生の妄想も含まれると思うので、コメントで異解釈や異説、訂正等あればよろしくお願いします。

蛙の歌の解釈 曾我物語 古今和歌集序聞書

【住吉の 浜のみるめも わすれねば かりそめ人に またとはれけり】

筆者流解釈

原の続く地、住吉の浜で、そこには海藻のが生えている上、あなたは忘草を摘んで何かを忘れる為にここに来たはずですのに、私と会う機会(見る目)を忘れないでいて下さったので、(そして、で有名なこの地であなたを待っていましたので、)こうしてかりそめにも人(あなた)に訪ねて頂いたのであるなあ。」

 

古今和歌集全評釈 上巻/片桐洋一】を読んでいて、この句に出くわした。

古今和歌集序文第一節「~水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」 言わずと知れた名高い一文であるが、この歌はその蛙の詠む歌の例として挙げられたものである。

この歌に関して、筆者なりの解釈を加えようと思う。

 

「蛙のよむといふ事、同じく日本紀に云く、壱岐守良貞、忘草をたづねて住吉の浜に行きたりけるに、美しき女にあへり。後会を契るに、女のいはく「吾を恋しく思はむ時は、この浜へましませ」といふ。後にたづね行きたるに、女なし。かの浜に蛙出で来て、ゐたる前を這ひ通る。その足の跡を見れば、文字なり。これを読みてみれば歌なり。」

 

 

この後に、前述の歌が出てくるのである。

「」内の解釈としては、恐らく何か忘れたい辛い出来事(失恋?離別?)があったのだろう。それを忘れるために、忘れ草と縁の深い住吉の地を訪ねたと考えられる。

 住吉と忘れ草の深い関係は、

 

【古今恋5-917

すみよしと海人は告ぐとも長居すな人忘れ草生ふといふなり  壬生忠岑

を見れば明らかである。

 

そんな時に女に会い、後に会うことを約束したので、その後訪ねてみれば、そこにいた蛙が歌を詠んだ、というあらましだ。

 

さて、肝心の歌の解釈だが、「海松布(みるめ)」と「見る目(会う機会)」の掛詞は言を俟たない。

住吉と来れば松原、忘草が連想される。

[松原]、[海布](→見る目)、(そして私の解釈で使った[待つ]という語)音や漢字の共通した語を句の中に組み込んでいるのだと筆者は愚考するのである。

[忘れねば]と[忘れ草]の関係は言うまでもない。

 

こうして解釈をした後見てみると、全体的に、この句の背景には、自然に関する語が鏤められ、そして自然のイメージに貫かれていると筆者は愚推する。

海松布、忘草、そして住吉の浜に生える松原を詠んでいること、そして、この歌の最も特異な点、が詠んだ歌であるということを考えれば、やはりこう考えざるを得ないと思う。

 

万葉集とは少し趣が異なり、技巧の凝らされた雰囲気のある古今集の注釈の例に挙げられる句として、含みのあるこの歌は相応しいのではないかと思うのである。